[編集] キリスト教徒の歴史
[編集] 初代教会
教会は始めから唯一の普遍的(公同的)集団であるという考えと、普遍的教会は後に成立したという考えがある。
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前者の考えは「目に見える(可視、可見、見ゆる)普遍的教会」と言われる。初代教会から継承され、民族や地域を越えて全世界の教会が教理や礼拝を一致させて作り上げてきている「目に見える教会」である。1つ1つの教会が普遍教会なのである。この考えは2世紀から4世紀に完成した使徒信条(使徒信経 Apostles' Creed)の中に述べられている。
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一般的に目に見える普遍教会の伝統では、三位一体、贖罪(キリストの犠牲によって得る罪の赦し)、からだの復活といった共通の信仰のもとに洗礼を受けた者は誰でも教会に受け入れられる。この教えは、目に見えない神の恵みを目に見える証として行う秘跡(秘蹟、サクラメント)の儀式に導入されており、「神が人間に与えた啓示、真のキリスト教徒すべてによって認められている真理、とくに聖書の言葉や聖なる伝統の中に伝えられるもの」(Deposit of faith)として次世代に受け継がれてゆく。
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一方、プロテスタントは人間の目に見える1つ1つの教会のバックボーンとなる「目に見えない(非可視、不可見、見えざる)普遍的教会」という考えを持つ。教派など目に見える違いがあろうとも、過去から未来までイエス・キリストを信じる者すべてが民族や地域を超えて作り上げるイエス・キリストのからだ、つまり目に見えない普遍的教会に属するという考えで、これは中世末期に宗教改革が起こるまで明白にされなかった。
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少数派ではあるが、聖書で「教会」と訳されているのは ほとんどが地元の自治体や集会を指していると主張する教派もある。英語のChurchは、主の家という意味の古代ギリシャ語のκυριακον から派生した。コイネー・ギリシャ語では教会をεκκλησ?α (ecclesia エクレシア)というが、キリスト教以前にはギリシャ都市国家の立法府などある目的のために集った会という意味で用いられた。
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この流れをくむ教派は、初代教会からコンスタンティヌス1世の台頭を通してみられた中央集権化をめざす教会内の動きが真のキリスト教からの逸脱であると考え、ニカイア・コンスタンティノポリス信条(二ケア信条)や使徒信条を否定している。
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[編集] 起源1千年紀
キリスト教信仰は、政府の弾圧にもかかわらず西暦64年から313年の間にローマ帝国内で花開いた。聖書以外で「クリスチャン」という言葉が出てくる最古例は、タキトゥスによる記録で、皇帝ネロが64年のローマの大火をキリスト教徒の犯行だと非難したとするもの。
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200年頃にはテルトゥリアヌスがキリスト教徒迫害について「殉教者の血は(教会)の種となる」と語った言葉が引用された。エウセビオスの『教会史』2巻25章4節の記述(英文)では
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ローマ人テルトゥリアヌスもまた(ネロがキリスト教の敵となった最初の皇帝であることの)証人である。彼は次のように書いている
記録を調べてみよ。そうすればこの教義を最初に弾圧したのがネロで、東方を征服したあと今まで以上にローマで残酷の限りを尽くしたことがわかるだろう。彼のような男が我々を迫害するリーダーであったことを誇りに思う。なぜならネロを知っている人間ならわかることだが、あの男は非常に素晴らしいものは必ずつぶしにかかるからだ。
313年 ミラノ勅令によりキリスト教が公認され、正式に弾圧が終わった。皇帝コンスタンティヌス1世のもとで、第1ニカイア公会議(コンスタンティヌス大帝の宗教政策 Constantinian shiftとも呼ばれる)に始まり、キリスト教徒は政治への強い影響力を手に入れた。その結果おこった様々な出来事は今日までも論争の的になっている。
380年にはテオドシウス大帝がニカイアのキリスト教を国教と定め、392年には他宗教を禁止し、キリスト教は古代ローマ帝国で完全に国教化した。
キリスト教徒達は目に見える普遍教会を統率し指導していくために、何世紀もかかってヒエラルキー(叙階)を作り上げた。教会の成立時から1054年の大シスマ(東西教会の分裂)までの期間、すべてのキリスト教徒は主教(司教)という地元の、そして総主教(総大司教)という地域の指導者のもと、目に見える1つの組織である唯一の教会に属していた。
しかし451年のカルケドン公会議の頃からすでに教義の解釈のちがいから小さな分裂がおこっており、全地公会議が続く間も続いていた。
[編集] 中世
古代末期に教義の違いから分離した教派(東方諸教会)は、エジプト、エチオピア、西アジアなどに勢力を張った。その後7世紀にアラビア半島にイスラム教が興ったのちは、ムスリムによる差別やイスラームの魅力などを理由にイスラームへの改宗が進んだものの、少数者の宗教として現代に到るまで存続している。例えば現在エジプトの人口の1割はコプト系のキリスト教徒である。
東ローマ帝国圏内のギリシア語を主に用いる教会と、西ヨーロッパ・北アフリカのラテン語を主に用いる教会は、教会観の違いや政治上の背景の違いから神学上の大きな差異を生じ、これも分離していった(東西教会の分裂)。もとより西方では、ローマ教皇が地方行政権を持ち、一大政治勢力でもあったのだが、分裂後はこの傾向が一層強まった。西方からは、ゲルマン、スカンジナヴィア、一部スラブ地域への伝道が行われた。その一方、ゲルマン民族の襲来とイスラム国家の進展によって、北アフリカは西方キリスト教地域から失われた。
中世西ヨーロッパのローマ・カトリック教会においてはローマ教皇が繁栄を極め、精神世界の頂点にあった。教会や付属団体がキリスト教を献身的に奉じて多くの国で熱心に神の言葉を広めたり修道院を建てるだけでなく、人間精神への多大な影響力を通じて、ついには当時の君主たちが持つ政治力に匹敵するほどの力を得て民衆の支持を受けた。権力の集中は教皇や高位聖職者の腐敗を招き、一部には本来禁じられている蓄妾や聖職禄めあての役職の兼任などの弊害も出た。
この時代 多くの人間は生涯を神に捧げ、教会に土地、金銭、財産を寄付することで信仰を態度に表した。そのためローマ教皇は徐々に西ヨーロッパ大陸で一番重要な人物となっていった。神への一途な献身と崇拝を示すために、豊かな資産でしばしば美しい大聖堂が建設された。教会の修道院は勉学と研究の場であり、のちに現代の大学の基礎となった。また教会は病人の看護のための最初の病院を作った。その一方で、当時の社会不安と聖書中の終末預言が結びついた集団的熱狂もたびたび現れた。
一方、正教会、東ローマ帝国圏内においても、教会は人々の精神生活の中心となり、壮麗な教会が建造され、修道院が繁栄した。ギリシア語圏であるため、人々の多くは聖書に親しみ、ために神学論争はときに庶民をも巻き込むことがあった。イスラム圏と対峙し、勢力の縮小に悩まされていた地域であったため、この頃制定また整備された正教会のいくつかの祭りには、異教徒への対抗心を含んだものもある。また東方では本来終末論はあまり広まらなかったのであるが、帝国末期には、終末論や天国・地獄を描いた伝承も現れるようになった。また東ローマ帝国からは、周辺の異教の地域への布教が積極的に行われた。周辺諸民族のなかには、帝国の豊かな文化と技術また外交上の利点を魅力として、国家単位で改宗するものもあった。
[編集] 近世、近代から現代へ
近代のキリスト教信仰の歴史は、その多様化から言っても、各宗教運動ごとに研究を進めていくべきである。西洋では、宗教改革によって教会と国家の関係がしっかりと調整されたことにより、教義の自己解釈や、目に見える統一体(普遍教会)という考えに対する公然たる批判が始まった。
北米の植民地では、啓蒙時代の思想から来る知的刺激に引き起こされて宗教運動が起こった。大覚醒(Great Awakening)と呼ばれ、北米のプロテスタント教徒の大部分の信仰活動の基本となっている。
マタイによる福音書28章19-20節にあるイエスの言葉に応え、キリスト教の全教派が伝道団(Mission)を各地へ送ったため、今日世界のほぼどこへ行ってもキリスト教徒がみつかるようになった。
一部のキリスト教徒は、原始教会やキリスト以前の預言者にみられるような預言者的コミュニケーションや奇跡の神癒に熱心に参加している。これらの教徒はペンテコステ派に区分されるが、カリスマ運動(Charismatic Movement)、カトリック・カリスマ刷新など他の教派にも存在する。
今日のキリスト教圏には、エマージェント・チャーチ(emergent church)、キリスト教根本主義、正教回帰(Paleo-Orthodoxy)、メシアニック・ジュダイズム、自由主義神学、ハウスチャーチ(House Church)といった運動がある。
現在もなお、キリスト教徒の生き方は新約聖書に書かれたイエスという人物を信じることが根本である。完全に整った霊的状態は神の好意で与えられることによってしか実現しないといった教えにもみられるが、「人間の力では到底得られないものが神の情けによって与えられる」神与(天与)の恩恵(Divine grace)という考えもまた、秘蹟と並んでいまだキリスト教徒特有の概念である。